Our Story
佐々総業の歩み
私たちがどこからきて、何を大切にしてきたのか。
社内で語り継がれてきた言葉とともに、その歩みを紹介します。
創業期
うちって、何屋さんですか
創業してからの数年間、私たちは何度もそう聞かれました。
平成20年1月、岩手県山田町。
足場工事を主力に佐々総業は生まれました。
けれど実際に手がけた仕事は、それだけではありません。
冷凍車に魚を積み込む。トレーラーに載せて運ぶ。
茹でたワカメを、ひとつずつ袋に詰める。
建設会社の看板を掲げながら、頼まれたことは何でも引き受けました。
だから、聞かれるのです。「うちって、何屋さんですか」と。
当時を知る社員は、いま笑いながらそう振り返ります。
当時は答えを持っていなかったこの問いに、私たちは18年をかけて答えを出していくことになります。
「できますよ。やらせてください。」
創業期、社長の佐々克考は、お客さまに「これ、できますか」と聞かれるたびにこう即答していました。
会社に持ち帰って、社員に伝えるのは一言だけ。
「明日からこの現場だから」。
前日に仕事が変わることも、やったことのない作業を任されることも、珍しくありませんでした。
無茶な話です。それでも社員は、驚かなくなっていきました。
「それが普通だったので」。
この時期に培われた対応力は、いまも佐々総業の現場を支える一番の強みになっています。
越えるべき山は、高いほどいい
同世代の仲間が多く、互いに競い合っていた時代でした。
難しい仕事であるほど、それをやり遂げることに誇りを感じる。
そういう空気が、この会社にはありました。
若さと勢いで乗り越えてきた時代でもあり、いま同じことを社員に求めることはありません。
ただ、あの時期に培われた「やってみる」という気質だけは、大事に受け継いでいます。
2008
東日本大震災
あの夜、火を囲んだ
町の景色が消えました。会社も、町も、先の見えない状況に置かれました。
何もない場所で、どうすることもできず、火を囲みました。
「どうする、どうする」と言葉を交わしながら、夜が明けるのを待ちました。
「今思うと、あそこで絆が固まったんじゃないかと思います」。
社員はそう振り返ります。
何かを決めた夜ではありませんでした。
ただ、この人たちとやっていくのだと、それぞれが静かに確かめた夜でした。
震災は、社長自身を大きく変えました。
「それまでは、周りに迷惑をかけることが多い人間でした」。
本人が率直にそう振り返ります。
その人生の途中に、あの日がありました。
目の前で町が失われ、人の力ではどうにもならないものを見たとき、自分の中の何かが切り替わった。
人にやさしくあること。人を信じること。その大切さを、いちばん厳しい場所で知りました。
「そこから佐々総業の真髄が生まれた」と社長は言います。
平成24年8月、佐々総業株式会社を設立。同年10月には建設業許可を取得しました。
仲間の集まりだった会社が、法人という器を手にした年でもあります。
2011
復 興
これをつくれば、街のためになる
復興工事が本格化し、会社は急速に大きくなりました。住宅、道路、防潮堤。
現場に立つ社員の気持ちも変わっていきました。
防潮堤を組みながら、若いなりに思ったそうです。
「これを作ることで、街のためになるぞ」。
壊れた漁港でクレーンの基礎を組みながら、漁師さんの船がまた上がる日を思い描いた社員もいました。
会社にとっても、初めての感覚でした。
自分たちの仕事が、誰かの明日に直接つながっている。
自分たちが一歩でも前に進めば、それだけ復興も前に進む。
そう信じて現場に立ち続けた数年間でした。
山田町にとって、祭りは特別なものです。
盆にも正月にも帰らない人が、祭りには帰ってくる。
幼い頃から祭りに親しみ、地域の団体に関わってきた人も少なくありません。
震災で町の景色は変わり、神輿のルートも、屋台の場所も、すべて変わりました。
それでも熱は消えませんでした。
むしろ、震災を経てから町全体の熱量は高くなったと、社員は言います。
いまでは中学校でも、多くの生徒がさまざまな形で祭りに関わっています。
花火大会のステージも、祭りのステージも、佐々総業が組みます。
「うちらがやらなかったら、どうやるんだという感じですよね」。
最初の一回は大変でした。二回目からは、当たり前になりました。
2015
継 承
誰かがやらなきゃいけないなら、手を挙げる
2017年、伝統的な宮大工の技術を持つ会社をグループに迎えました。
大船渡に伝わる気仙大工の技術を、次の世代に残すためです。
同じ年、就労継続支援B型事業所「ジョブ・パートナー」も設立しました。
なぜそこまでやるのか。社長の答えは、驚くほど飾りがありません。
「地域になくてはならないもの。
消えてはいけないものを、誰かがやらなきゃいけないじゃないですか。
ただ、俺が最初に手を挙げているだけの話なんですよね」
最初から、すべての形が決まっていたわけではありません。
必要とされることに一つひとつ向き合いながら、形をつくってきました。
それでも5年後、10年後、人口減少がさらに進んだこの町で、
「あの会社があって、この仕事が回っていて、支えてもらっているんだ」と思ってもらえたら。
いまは、そんな思いでいます。
産業廃棄物収集運搬業の許可は福島、秋田、宮城、青森へと広がり、
令和4年には一般貨物自動車運送事業の許可も取得しました。
岩手を拠点に、東北から関東へ。そして全国へ。
2017
いま
変わったこと
会社が大きくなる過程で、社長自身も自分を変えていきました。
「俺は視野が狭かった。この町の中の価値観だけで生きていた」。
外の経営者と腹を割って話せる仲間ができ、学ぶ機会が増えました。
かつては「今、大変だから助けてほしい」とは絶対に言いたくない人でした。
いまは違います。
「任せるものは任せて、その人たちを信じて任せるほうがいい」。
社員に対しても同じ考えです。
いろんな人に会い、いろんな意見を聞き、いろんな価値観に触れる。
そのうえで自分がどう決めるかを、自分たちで考えられる機会をつくり続けたい。
かつて自ら多くのことを決めていた社長が、いま最も力を入れているのは、社員が自分で決められる環境をつくることです。
『一人ひとりが、群れを引っ張るライオンに』
コーポレートロゴのライオンには、意味があります。
一人ひとりが自ら考え、周囲を引っ張っていける存在であってほしい。
そうした願いを象徴する存在として選ばれたのが、百獣の王・ライオンでした。
社員一人ひとりがリーダーシップを持ち、自分のチームを、そしてこの街を引っ張ってほしい。
そんな願いが込められています。
「山田町といえば佐々総業。ゴールドのトラックといえば佐々総業。
現場に出るときは、常にそれを背負っています」
地域で何かあったとき、声をかけてもらえる会社でありたい。
そして、その声にできる限り応えられる会社でありたい。
創業期の「できますよ」は、形を変えていまも生きています。
2026
これから
悲しみも、楽しみも、共有できる組織でありたい
これから佐々総業がどんな会社であってほしいか。
社員に聞くと、こんな言葉が返ってきました。
「どんどんチャレンジして、毎日進んでいく会社にしたい」
「悲しみも、苦しみも、楽しみも共有できる。家族のような組織であり続けたい」
「あそこに行けば、なんとかなる」
社長が描く未来は、こうです。
「挑戦、変革、行動を体現できて、みんなが人間らしい素の姿を出せる会社でありたい。
自由に楽しみ、自由に笑う。それが結果として事業の成長につながればいい。
あそこは何かしてくれる。
あそこに行けば元気が出る。
あそこに行ったら問題を解決してくれる。
いろんな角度からの、ハブになりたいんです」
若者に選ばれる会社に。憧れられる職業に。
うちって、何屋さんですか。
18年かけて、私たちはようやくその答えを持ちました。
この町に必要なことを、全部やる会社です。
20XX